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明和7年(1770年)4月25日、京都の刑場で行われた解剖の記録。「蔵志」についでわが国で2番目に出版された解剖書で
ある。解剖には河口信任らが執刀し、信任の師荻野元凱をはじめ同門の者と9名で臨んだ。
この解剖は河口信任と「解屍編(かいしへん)」に名を載せることを拒否した原田維祺の二人が相談して、そのときの
京都所司代古河藩主土井利里に許可を願い出て実現した。
河口信任は古河藩医であり、祖父の代から紅毛外科医として土井侯に仕えていたが、原田は長崎の人で吉雄耕牛、
栗崎道意など当代一流の紅毛外科医について学んでいた。いずれもメスの使い方の覚えがある身、山脇東洋ら漢方の
古方派の人々と違って、屠者に替わって自ら執刀した。それだけに「蔵志」より詳しい。
本文では解剖の所見に対する荻野元凱の意見が随所にみられ、五臓六腑の誤りを指摘し、暗に「蔵志」の内容を
批判しているが、膀胱之図の膀胱の頂部の「脂有リ、大小分カルル間ニ附着ス」と、旧来の五臓六腑説の小腸と大腸
の境で膀胱に接し、水分が膀胱に流入して尿となる説を認めるなど五臓六腑説にとらわれていることも少なくない。
なお、「解屍編」の原稿ができる前に、原田維祺がこのときの解剖をもちに「臓腑図志」を書き上げていた。
(図録日本医事文化史料集成 第2巻より)
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